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ラスティックバーン 野見山昌子さん[糸島と珈琲と、ひと。 - 第三杯目 -]

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ラスティックバーン 野見山昌子さん[糸島と珈琲と、ひと。 - 第三杯目 -]

2018.03.19

 

糸島の町を抜けて小山の見える方へ車を走らせ、広い田んぼをふたつに分けるように続く道を進んだ先に野見山昌子さんのお店はある。

田舎のひなびた小屋という意味を持つ店名 ラスティックバーン。

 

食べるものもちゃんと選ばれているのだろうと想像してしまうほど艶のあるきれいな毛並みの犬が出迎えてくれた先にハンモックと大きな木のテーブルが置かれた庭があり、古い一軒家を改装したお店の扉が見えてくる。

野見山さんが30歳くらいの頃にOPENされて今18年が経とうとしてるという。

 

 

「立ったり座ったりしながら話しますけど気にしないでください。

まさこなのでマコさんとみんな呼んでくれてます。」

 

そう挨拶してくれた言葉に甘えてこの日は僕もマコさんと呼ばせてもらおうと決めた。

マコさんはお店の営業と平行して3月21日に糸島の櫻井神社で開催される『さくらいとしまつり』という年に一度のお祭りの主催もされている。

そのお祭り開催直前の慌ただしい中、夕方の陽が落ちる前の黄昏時に聞かせていただいたお話をご紹介します。

 

 

ーー2015年から始められたさくらいとしまつりも今回で4回目を迎えられるということで、第一回目開催までの経緯やマコさんのこれまでのことを今日は聞かせてください。

 

 

マコさん :

「一回目から三回目までやってきてなかなか大変さも味わって(笑)

よそ者なのに地元の神社でよくこれだけのお祭りができたなって感じです。

私自身はもう20年以上糸島には住んでいます。

ずっと都会が大好きで、自分は都会で生きると思ってたから糸島でお店をやっている現在のこの未来は想像していなかったですね。

 

生まれは大阪なんですよ。 親が新聞社で働いていて転勤族だった事もあってその後幼少期は福岡の雑餉隈に住んでた、そのあと埼玉へ移り小学校から二十歳まで早良区で育って就職して26歳までは東京でした。

美大を出てデザイン事務所でグラフィック系の仕事をしてたり派遣の仕事をしたり、その頃はバブルの後くらいで自分もバブルッ子だった。

一個仕事を見つけたらばかばかお金が入ってくるような感じだったから年に二回も三回も海外旅行に行っちゃうような感じでしたよ。

 

そんなときにデザイン事務所の先輩が誘ってくれたパーティーでイタリア人と知り合って、「こんなイタリア人に引っかかっちゃダメよね」って思ってたらまんまと引っかかっちゃって(笑)

27歳のときその彼と出逢ったのをきっかけに一緒にイタリアへ移住しました。」

 

 

マコさん : 

「イタリアの事なんてなんにも知らなくって言葉すら分からない。

私はどっかぶっ飛んでるところがあるんです、行ってみてからあちゃーみたいな(笑)

でも行ったからには一年は住もうと思って、その時に住んでたのがイタリアのフィレンツェ。

ただそこはフィレンツェの素晴らしい街が窓から遠くに小さく見えるような離れた田舎のほうだった。

それこそ糸島で言うと雷山観音の辺りに住んでてそこから天神が遠くに見えるような感じ(笑)

 

東京の街の中でちゃっちゃか暮らしてたからそんな田舎で何していいか分かんないんですよ。

でも毎日毎日その風光明媚ななだらかなパッチワークのような丘が見えるトスカーナの村に住み、バスも一日に五本くらいしかない、一応水道はあるけど飲み水は山へ汲みに行くような美しい生活だった。

 

世の中はやっとパソコンが出だしたくらいでメールもないフロッピーの時代。

日本からフロッピーを五枚くらい持って来てたんだけどそれも文字化けしちゃって使えない。

そうなったら読書したり自分で縫い物したり、お花を摘んできて生けたりっていう “ その場を活かして自分で楽しみを見つけなければ楽しくない “ っていう生活をして、それがすごくカルチャーショックだった。

 

そこで暮らして行くうちに「こんな郊外に住むのってかっこ良いいんじゃない?」ってちょっと観点が変わっていったんですよね。」

 

 

マコさん : 

「のちに東京に帰って来るんですけど体調を崩して入院しなければいけなくなってじゃあ実家の福岡へ帰ろうと。

で半年くらいは仕事に行けない状況が続きました。

 

1995年頃かな、家は平尾だったんですけど療養しに糸島へ来てて当時この辺りの海岸に一軒だけあったSUNSETっていうカフェにお茶を飲みに行ったりして遊んでた流れでSUNSETで働くようにもなって私の糸島の入り口になった。

 

結果さくらいとしまつりに繋がっていく事になるんですけど、それが第二回サンセットライブの運営に参加させてもらったことです。」

 

カフェ サンセットとの出逢い

 

——糸島の音楽を語る上で欠かすことのできないサンセットライブ、第二回目のころということはまだ店舗で開催されてた頃ですよね。

 

マコさん : 

「そうそう、開催の一週間くらい前に「ボランティアしてくれない?」って頼まれて、仕事もしてないときだったしいいですよって。

イタリアに住んでた時に友達からエアメールで「おもしろいのやってるから日本に帰っておいでよ」ってサンセットライブのことを手紙に書いてくれてたのを憶えてたんです。

そのサンセットライブがもうすぐ始まるんだ!とチケットを買って楽しみにしながらボランティアで開催に向けてゴミ箱作ったりゲート作ったりしていました。

まだ小さいかわいい手づくりのイベントでしたよ。

 

そうやって当日を楽しみにしてたらオーナーが「当日も手伝って」って言うから「いやいや、私チケットも買ったし!」って返したら「大丈夫、払い戻しするから」って(笑)

えーみたいな(笑)

 

でもそれがイベントとの出逢い。」

 

 

マコさん : 

「てっきりチケットのもぎりとかかなあって思ってたらアシスタントディレクターをしてって頼まれた。

そんな仕事した事ないし、はじめてのライブだし(笑)

 

当日が来て、当時携帯電話とかもないから何かを伝達するときは走って伝えにいくしかない。

一日走って走って終えてみたら「なんて楽しいんだろう!」と水を得た魚になっちゃったんですよ。

3回目を迎えた時にオーナーがもう大変だからしたくないって言ったんですけど「これは続けるべきですよ、私にやらせてください!私グラフィックやってたんで絵も書きますから!」ってポスターの絵を描いた。

イベントの手伝いしたり、お店のまわりのトタンに絵を描いたり。

 

結局その後サンセットに就職したんです。

 

 

イタリアにいた頃、できれば田舎で働けたらという想いがあったりしたから最高!と思って。

それからお店とイベントを手伝いながら1999年にサンセットを辞めて2000年にこのラスティックバーンをOPENすることになります。」

 

 

——サンセットから糸島でのいろんなことが始まっていくんですね。

サンセットに勤めてる時にはいつかは独立してお店をやりたいという想いがあったんですか?

 

マコさん : 

「今でこそこういった古民家を使ったカフェはあるけど当時はあまりなくて。

ちらっと物件があることを知って、普通のアパート借りるくらいの家賃だったらここに住みながら外へ勤めに出てもいいしと思ってダメ元で準備をはじめました。

うまくいかなかったら辞めればいいしってイタリアに行った時見たいな潔さがありましたね。

 

 

イタリアにいたときの雰囲気で自分の好きなカタチの庭を作りたいと思っていました。

この場所もどの田舎にでもあるようなざらっとした土地だったんですけどぼちぼち自分で木を植えていった。

 

普通のお店だったらいっぱいテーブル置いてもっとカフェっぽくすると思うんですけど、庭にテーブル置いたりお客様が持ってきてくれた木を植えたりハンモックを吊ったり “ ちょっと抜いたところがある優雅さ “ というのがいいなと。

そこに私は価値を求めているし、繁華街ではないところでの「ふう」って息を抜く時間や場所の優雅さってこんなことじゃないですか?っていうのを提示したかった。

これってずっと田舎にいる人ではきっと気づきにくいし、ずっと都会にいる人にも分からない。

 

いろんなところを動いて見てきて私はこのテイストがかっこいいんじゃないかなと思ってるんです。」

 

 

マコさん : 

「ある日「あなたがここでこうしてがんばってることは、これから何かをしようとしてる女の子にとって励みなんだよ」という素敵な表現をしてくれた友達がいたんです。

他にも年上の方たちが「お願いだからずっと続けてほしい」と言ってくれたり。

 

知った顔に会いに来れる喜びっていうのかな、そう言われるとがんばろう!って思う。」

 

ラスティックバーンOPEN、そしてさくらいとしまつり開催へ

 

——いろんな方の想いがこもったこのお店が今日もちゃんとここにあるというのは素晴らしいです。

そんなラスティックバーンOPENからさくらいとしまつり立ち上げまでどのようにして繋がっていくんですか?

 

マコさん : 

「お店の周年イベントをOPEN日の7月7日に毎年やってたんですけど、営業していく中で途中お店の立ち退きの話もあったりとけっこう揺れてた時期があったんです。

2014年に今年の周年祭がもう最後かなと思っていたら周年祭当日の朝に14年間一緒に暮らしてたパウダーという名前の犬が死んじゃって。

私はずっと泣いちゃってたんですけど周年祭に来てくれる方々が「パウダーすごいね、マコさんが一年で一番さみしくない日に逝くなんて。」と言われてすごい犬だなあと思って、結果とても印象的なアニバーサリーになった。

 

でもまた来年やったら思い出してしまうからうちでの周年祭はやらなくていっかと終止符を打つような感じだったんですよね。

そしたら音響を手伝ってくれてた方が「よかったらこのイベントをそのまま櫻井神社に持って来ない?」と誘ってくださった。

そこからその方と私と櫻井神社の方とでやりましょうかとなってうちでやってたフリマと出し物という内容を引き継ぎながら動き始めました。

手探りで始めたんですけど、一回目の開催が素晴らしいことに伊勢神宮の式年遷宮 (伊勢神宮の天照大神を祭神とする内宮、豊受大神を祭る外宮ともに20年ごとに社殿を新しく造営し祭神を遷座すること) とぴったり合って桜井神社に鳥居がやってくるタイミングだったので、このお祭りの日をお披露目の会にしましょうとなって一大イベントになったんですよ。

 

さくらいとしまつりの二回目と三回目は約2000名くらいの来場があったんですけど一回目の年はそれもあって5000名くらいの方に来てもらえました。

まあみんなびっくりですよね(笑)

日中天気もよかったりして不思議なことがいろいろ重なったんです。」

 

 

——5000名! 新しい周年のカタチとしてはこの上ないですね。

お店の周年祭からさくらいとしまつりという名前に変わったことでなにか心情の変化というのはありましたか?

 

マコさん : 

「自分の店のためだけじゃなくより範囲が広がった。

それこそ櫻井神社は私も大好きだし、櫻井の子たちも櫻井神社のことが大好き。

こうしたお祭りがあるとふだん神社に足を運ぶことの少ない人もちょっと海を歩こうかみたいなお散歩ついでくらいの感覚で来てもらえて、ここから賑わいが始まってより糸島が復興してみんなが楽しめるみたいになったらいいなとより大きな観点に変わりました。

 

 

ーー店から町へと変わったんですね。

お祭りの名前も印象的ですごく好きです。

 

 

マコさん : 

「【さくらいとしまつり】というのは最初に櫻井神社での開催の話をしてくださった方が仮でつけられた名前なんです。

いろいろ掛かっていていい名前ですよね。

[桜][櫻井][愛しい][糸島][祭り]

漢字にするとよりおもしろい。

 

これまで神社の雰囲気に合わせていろんな方に来ていただきました。

櫻井神社の神楽殿の前に椅子ではなく畳を敷くんですけど、そこにみんな座ってバックバンドのついた絵本の読み聞かせをやってもらったり、別の年にはミシュラン2つ星シェフのクッキングライブもやりましたね(笑)

今年は歌手のアン・サリーさんが来てくださいます。」

 

 

ーー僕もアン・サリーさんの歌が好きで今回とても楽しみにしています。

アン・サリーさんに来てもらおうとなった経緯をお聞かせください。

 

マコさん : 

「これがまた伏線があって、私が櫻井神社を好きになった理由のひとつがあるんです。

 

7,8年前かな、茅葺き屋根職人の男の子がいてその子が職人になる前にふらっとうちの店にやってきたことがあったんです。

その日のことはすごく憶えてるんです、丸坊主でまだ大学出るか出ないかくらいのころだったと思うんですけど短パン履いてて。

何をやってるのか聞いたら貝を削っていろんなアクセサリーを作ってると。

ちなみに後に結婚することになる子と出逢ったのもこの店なんですよ!

その後職業訓練学校に通って茅葺き職人さんになった。

 

 

何年か経って、櫻井神社の大神宮のぼそぼそだった茅葺き屋根を大分の職人さんと5人くらいで葺き直しに来たんですよね。

そしたら彼が「マコさん、あんまりお金は出せんのやけどお弁当を作ってくれん?」と言ってきて、それから毎朝うるしっぽいお弁当箱にごはんを詰めて持って行くことになったんです。」

 

 

マコさん : 

「それまで神社にお参りするなんてせいぜいお正月くらいだったんですけど毎日毎日届けてるうちに持って行ってることが嬉しくなってきて、お弁当作るのも楽しいし「今日は何着ていこう」とか「なにつくろう」とか。

もう楽しくて楽しくてたまらなくて新しく恋愛が始まったみたいに楽しかった!

 

2週間くらいそんな日々が続いていく中で「神社に来るってこういうことなんだ」と身体で感じたんです。

 

日々茅葺きが葺かれているのを眺めていたらなんだか泣きたくなるくらい感動したんですよね。

その時の私の心情は天照大御神のもとで料理を司る豊受(とようけ)の神になったような気分、伊勢神宮でもそうなんだけど神様に毎日伊勢で摂れた食材を奉納するというのがあってまるでそれみたいと。

ましてや櫻井神社は伊勢神宮の分社だし、それで神社に参るということにすごく喜びを感じちゃってそれから一年くらい毎日お参りに通いました。

 

そうこうしているうちにこのお祭りの話にもなったりしたのでなにかご縁があるのかなと思いました。」

 

強い雨降る夏至の日の出来事

 

マコさん : 

「それから以前一度だけ櫻井神社で神懸かりにあってる人に出逢ったことがあったんです。

400年前櫻井神社が嵐にあったときに奥の天の岩戸がぽろっと出てきてそこからはじまった神社なんですけど、その400年前と同じ日だ!と感じた日があったんです。

 

すごく雨が降る夏至の日で、今日は雨足も強いし神社のお参りはいいかなと

思って買い物に行ったんです。

ふと「だめだ、やっぱり行かなきゃ」と思ったその瞬間に車のハンドルが勝手に動いて、櫻井神社にそのまま向かったらきちっとした身なりのおばあさんがいた。

「よくお参りにいらっしゃるの? あなたみたいな若い人が守ってねこの神社を。」と言われたので「はい分かりました、がんばって守っていきますね。」と話して階段を登っていったらおじいさんとおばあさんが6人くらいいてその中に全身白のスーツを着た女の人がいた。

その人が神懸かりになっていてひとりで何役もやりながら話をしてた。

私はうしろにいながらどうしようと思いながらもそのまま話を聞いてたらおじさんがやってきて「今の話聞いてたの? なんて運がいいんだあなたは。私は岐阜から、あの人は熊本から、あの人は仙台から。今日はここに神様が降りて来る日だから僕たちは全国から集まったんだよ」と。

 

そしてさっきの女性がこちらを振り返った瞬間に私はぼろぼろ泣いてしまって。

「聞いておられました?これからいろんなことがあるけど惑わされてはだめ。

大丈夫安心して、今からの未来は花がたくさん咲く美しい未来があるから。心が迷うことがあったら神様の下でしんとした気持ちでいればあなたが何をしなければならないかということが自ずと分かってくるから。」と言われてそのまま泣きながら頷いた。

 

こんな貴重でいい想いをさせてもらったしお祭りもはじまるし、神様が喜ぶことをしようと思ってそれから動き始めたんです。」

 

マコさんと櫻井神社を繋げるもの。

 

マコさん : 

「さくらいとしまつり三回目を迎えた去年、さっきお話しした茅葺き職人の子が亡くなっちゃったの。

このお祭りを始めたときからアン・サリーさんをいつか呼びたいと思ってたんですけどその子がアン・サリーさんのことが大好きだったんですよ。

いつか彼が葺き替えた大神宮の下の神楽殿でアン・サリーさんの歌が聴けたらなあと。

でサンセットライブでアテンドとかをしてる子にアン・サリーさんを呼びたいと話をしたら取り次いでくれて、いろんな繋がりが繋がって今回の出演が決まったんです。

 

今回のポスター、実は彼が葺いた大神宮の下の神楽殿でアン・サリーさんが歌っているというデザインになってるんです。

彼がチョウチョになって茅葺き屋根に現れていたり、空から見ていたりする絵になってる。

これも私が描いてデザイナーの子が色をつけてくれました。」

 

これからのこと。

 

マコさん : 

「お祭り一回目の伊勢神宮から櫻井神社へ大きな鳥居がくるとき、その茅葺き職人の子は伊勢神宮の葺き替えもしたんですよ。

だから彼がいろんなものを持ってきてくれたような気がしてる。

私の中ではいろんなものが引き寄せられてるし引き寄せてくれたし繋がってる。

そんな中で生きてるから楽しいんです私!

 

今回のさくらいとしまつりの開催を最後に私は運営からは離れるんです。

茅葺き職人の子からも力をもらえたし、いつかアン・サリーさんに来てほしいという夢も叶ってこれでいいのかなと思えています。

 

2006年から今日お話ししたこととか日々のこととかをずっとブログに書いていて、2020年にこの店が20周年を迎えるまでにエッセイとして出せたらいいなと思っています。

今後はイベントではなくて、自分の記録として。

 

お店をはじめたときからおばあちゃん家とか友達の家みたいな、来ると「よかったマコさんがいて」と言ってもらえるような場所にしたかった。

今日も10年前に来ていたお客さんが来てくれてて、どう?って聞いたら「変わってなくてよかったです。」と言ってくれた。

これからもそうでいたいですね。」

 

マコさんの淹れるコーヒーと想い。

 

ーーお店をひとりで切り盛りされるマコさん。

飲み物を頼もうとラスティックバーンのメニュー表を開くと穀物コーヒーやココナッツコーヒーミルクなど様々。

ブレンド用の豆が数種類用意されているにも関わらずメニューには「コーヒー」としか表記をされていない。

 

 

マコさん : 

「私はいらしたお客様を見分けて豆を使い分けてます。

若い方にはちょっと深め、私よりも上の方には昔喫茶店で出てたような香りがよくておいしいもの、みたいに。

コーヒー屋さんとかだと豆の種類で注文したりもすると思うんですけど、豆の事を知らないお客様にはそれって難しいじゃないですか。

こっちは知ってるからこれはこのテイストなんだとかってそういった事も言ったりはするけど、私は “ こっちの方が好きだろうなあ ” って豆を使い分けるようにしてますね。」

 

 

——なんだかバーテンさんみたいなスタイルですね、ジントニックでもお客様にによって分量を変えて出したり。

 

マコさん : 

「そうそう!好きで何回かおかわりしてくれるような方にはこっちかなって出してます。

はじめてうちでバイトをしてくれた子が福岡の別府の方にいて、「友人がコーヒーの豆屋さんをOPENしたからぜひ」って紹介してくれてTOMONO COFFEEさんの豆を使っています。

糸島で焙煎されたコーヒー豆はどこもおいしいしそれを使うものいいんですけど、なんか系統ができちゃう気がするし、さくらいとしまつりみたいにお祭りをやってると地元の豆だと癒着してるような気もして(笑) 」

 

 

 

そうやって冗談と本音をまじえながらたくさん語ってくれるマコさんの言葉にはこれまで生きて来られた時間と生き様がそのまま現れているように感じます。

よかったことも苦しいことも、全部を飲み込んでここにいる。

そんなマコさんがお店に来てくれる人に合わせて選んだ豆で一杯づつ淹れてくれるコーヒーは、ちょっとしたティーブレイクにもなり日常からの休憩のような時間にもなってくれる。

 

20周年を目前にしながら目線はすでにそのもっと向こう側をみているように思えるマコさんのお店ラスティックバーンはもちろん、出逢いと繋がりが導いてくれた第4回さくらいとしまつりにもぜひ足を運んでいただきたい。

出逢いは奇跡になり、奇跡は未来になる。

マコさんのお話を聞き終えた今、本当にそうだなと思っていたりします。

 

 

 

 

ごちそうさまでした。

 

 

文 : 山口達也

写真 : tokuto (写真家)

 

 

 

《SHOP情報》

RUSTIC BARN - ラスティックバーン -

場所 : 福岡県糸島市志摩桜井5618

OPEN 12:00-19:00

定休日 : 火 

TEL : 092-331-7755

web : http://rusticbarn.info/

facebook : https://www.facebook.com/rusticbarn

 

 

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《イベント情報》

第4回さくらいとしまつり

日時 : 2018年3月21日(祝水)

場所 : 櫻井神社境内 内  (糸島市桜井4227)

時間 : 10:00-16:00

入場 : 無料

問い合せ : 092-331-7755

web : http://sakuraitoshima.info/

facebook : https://www.facebook.com/sakuraitoshimatsuri/

 

 

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